2007年10月03日

地方都市と映画 第2回:映画祭編 「湯布院映画祭 −その自律的な文化情報発信装置としての機能について」 著者: 児玉 徹

(1)はじめに

今年の8月22日から26日の5日間にかけて、大分県の由布院において、第32回の「湯布院映画祭」が開催された。筆者は、幸運にも同映画祭に実行委員のひとりとして参加する貴重な機会に恵まれた(といっても末席を汚しただけのことであるが)。と同時に、ひとりの「観照者」として、同イベントが提示する「地域社会における自律的な文化情報発信装置」としての高い機能について、極めて客観的に観照することができた。

本稿では、本ジャーナル第2007年春号に掲載された「地方都市と映画」シリーズの第2弾として、現在地方都市において開催されている数多くの文化イベントとは一線を画する特徴を備えた「湯布院映画祭」の魅力と、それが含有する「地域活性化に向けた『文化装置』のモデルケース」としての普遍的要素について、筆者の実体験をもとに語ってみたいと思う。

なお、以下記すことは、湯布院映画祭の実行委員であった立場からではなく、あくまでもひとりの独立した「観照者」としての立場から述べるものであることを、ご了承願いたい。

先ずは湯布院映画祭についての簡単な紹介から。湯布院映画祭は、1976年(昭和51年)にその第1回が開催されて以来、毎年途切れることなく開催され、気がつけば今回で32回目の開催を迎えていたという、日本で最長老の映画祭である。

この大分県の湯布院という町自体については、日本でもナンバーワンの人気を誇る温泉街として、知っている人は多いのではなかろうか。そしてこの町が「市民の手による観光地づくり」の最も成功した例として、それを主導した中谷健太郎氏や溝口薫平氏の名前とともに全国的な名声を誇っている事実も、特に「地方再生」や「地域振興」に何某かの形で関わる者の間では、つとに有名である。(ちなみにこの湯布院は、2000年度に、(社)日本観光協会が主催する「優秀観光地づくり賞」で運輸大臣賞(金賞)を受賞している。) 

湯布院映画祭は、かように魅力的な町において、「映画館のない町の映画館」というキャッチフレーズのもとに(ちなみに湯布院には本当に映画館がない)、その長いドラマティックな歴史を刻んできたのである。では、この湯布院映画祭がここまで続けてこられたことの背景には、如何なる理由があるのだろうか。そしてそこには、現在「文化の力」なるもので地域再生・活性化を試みようとしている地方都市にとって、如何なる示唆が提示されているのだろうか。



(2)湯布院映画祭の発する文化情報について

さて、先ずは湯布院映画祭が放つ文化情報の意義を考えてみたい。とはいっても、湯布院映画祭においては全くの新参者である筆者には、過去32回に上映された全ての映画作品をレビューし総括するような知見は勿論備わっていない。よって本稿では、筆者が今回の映画祭で実際に目にした「大映京都特集」にまつわるエピソードを通して、湯布院映画祭が連綿と発信し続けてきた文化情報の一端について、簡単に触れてみたい。

湯布院映画祭は、第1回の開催より、基本的に「実写の邦画のみを上映する」ことを理念に掲げてきている。同趣旨のことは、同映画祭のホームページに「日本映画のファンと日本映画の作り手が出会う場としての映画祭というのが、この映画祭のコンセプトです」と書かれていることからも、理解できよう。その理由をはっきりと確認したわけではないが、要するに、日本の持つ独特な文化的土壌のもとに創作され世界に誇るべき創造性を内包した「日本映画」の灯火を絶やしてはならない、という思いが貫かれているからであろう。

今回の映画祭においても、この「実写の邦画を上映する」という型が遵守され、後述する大映京都特集、「彼女だけが知っている」「見上げてごらん夜の星を」「鬼火」といった一般上映作品、「こおろぎ」「かぞくのひけつ」「人が人を愛することのどうしようもなさ」「実録・連合赤軍」「やじきた道中・てれすこ」といった特別試写作品まで、実に多種多様な印象深い邦画作品が上映された。


大映京都特集

特に今回の映画祭では、「日本映画の美の記憶 〜大映京都撮影所が遺したもの〜」とのテーマを設定し、かつて世界に比類なき映像美を創出するための傑出した技術力を誇った大映の京都撮影所の8本の映画作品 −「疵千両」(1960年)、「小太刀を使う女」(1961年)、「越前竹人形」(1963年)、「大魔神怒る」(1966年)、「なみだ川」(1967年)、「怪談雪女郎」(1968年)、「利休」(1989年)、「女殺油地獄」(1992年)−が上映されたことが、注目に値する。その一環として、大映京都の創造力の根幹を支えた5人の映画人 −映画監督・田中徳三氏、美術監督・西岡善信氏、キャメラマン・森田富士郎氏、照明技師・中岡源権氏、そして大女優・藤村志保氏− を招き、そのクリエイティビティの源について、自由闊達なトークショウも開催された。(ちなみに、この一連の企画を主導したのは、湯布院映画祭実行委員のひとりである、幸重善爾氏である。)

この大映京都の映画作品を、今日上映することの意義、それは、映画批評家の仕事を語った以下の加藤幹朗氏の言葉に、凝縮されていると思われる:

「映画批評家の仕事は、同時代に不当に評価された映画作品の意義を(再)発見することにある。しかしそれは同時に、作品がなぜ不遇をかこったのか、その理由を映画史と映画理論の双方において同定する作業ともならなければならない。さもなければ、その(再)発見も批評家のたんなる主観的印象にとどまることになろう。そして、それがさらに既成の映画史と映画理論の再検討をせまらなければ、作品の意義の(再)発見もやはり意味のないものとなるだろう。要するに、作品とそれが一時的に帰属すべき歴史的、理論的枠組みとは弁証法的に再規定されなければ、作品を論じる意味もない。言いかえれば、映画史と映画理論は場合によってはただ一個の奇跡のような作品によって変更をせまられる柔軟な枠組みでなければならない。」〔加藤,2005〕

今回の湯布院映画祭のパンフレットの冒頭ページは、大映京都が1956年から1971年の間に製作した400本以上の作品群(その多くがいわゆるプログラム・ピクチャー)のうち、代表作と呼ばれるものでさえ、当時の映画評論家達からは正当な評価を受けていなかった事実を指摘している。その理由としては、「当時の日本映画のレベルが高かったので、週代わりの娯楽時代劇は評論家たちの記憶に残らなかったということは考えられる」としているが、一方で「同時代の映画評論家たちは大映京都の映画の面白さを正しく評価できなかった」と断じており、さらに「しかし、1971年の大映本社の倒産による映画製作中止から三十数年たった現在、多くの人が『大映京都の時代劇は面白い。他社にはない独特の味わいがある』という」「使い古された言葉だが、失われて初めてその偉大さがわかったのである」と述べて、まさに、今回の企画の趣旨が、失われた映画の「再発見」とその日本映画史文脈における「再規定」にあったことを示唆している。

そして事実として、今回の映画祭で大映京都作品を観た者は、「再発見」と「再規定」を実行しながら、今から約40年も前に、これほどまでに観た者の心を捉えて離さない魅力的な映画作品がつくられていたという単純な事実に、驚愕することになった。この点を如実に表すものとして、今回上映された大映京都作品の中でも、観る者の心に特に際立って印象深いインパクトを残した「怪談雪女郎」(1968年公開)にまつわるエピソードを、以下にとり上げてみたい。


「怪談雪女郎」

「怪談雪女郎」は、大映京都によって製作され1968年に公開された映画作品で、監督は田中徳三、主役の「雪女」を演じるのは、大映の看板女優・藤村志保である。この映画作品の何が凄いのか。それは、当時の大映京都が備えていた二つの特徴、つまり徹底した実証主義に貫かれた最高の映像技術と、それに裏打ちされた類まれなる創造力とがものの見事に結合することによってのみ表出され得た「美」というものが、この作品の全編に渡って溢れんばかりに充満しており、それが、観た者の「クオリア」に深く突き刺さってくることにある。

実際、この映画を今回の湯布院映画祭で観た観客の脳内では、ある種の「化学反応」が起こったようである。その証拠として、同映画祭の最終日に上映された松竹配給の作品「やじきた道中 てれすこ」(2007年11月より全国ロードショー)を観たある若者が、同映画上映後に会場2階で開催されたシンポジウムの場で、「本作品の幾つかのシーンでCG(コンピュータ・グラフィックス)が使用されているが、本映画祭で上映された『怪談雪女郎』 を観て『目が肥えた』後では、このCGによる表現が、もの足りなく見える」という主旨のコメントを述べ、場内を沸かせた。

筆者は、この若者の発言を、単なる一過性の感情から出た突発的なコメントとしてではなく、「怪談雪女郎」という(上述の加藤氏曰くの)「一個の奇跡のような作品」を「再発見」し、結果として自らが「日本映画」について保持していた一定の認識枠組みを「再規定」した者の確信的な発言として、注目したい。つまり、彼に代表される観衆の多くは、この作品に触れたことにより、「むかし」と「いま」に大きく「分断」された日本映画史の時空の壁を軽く飛び越えて、「いま」を「むかし」との対比から見据える術を得たのである。そしてこれこそ、「一個の奇跡のような作品」が持つ力のなせる技であり、こういった作品を発掘し、日本の映画界に「再発見」と「再規定」を迫りつづけてきた湯布院映画祭の「真骨頂」が垣間見えた瞬間であった。


湯布院の反乱

いま、日本国内の映画市場における邦画の勢いが、注目を集めている。日本映画製作者連盟が発表したデータによれば、2006年の国内映画市場における邦画の興行収入は前年比31%増の1,717億円と、21年ぶりに洋画の興行収入(948億円)を上回った。興行収入100億円を超える大ヒットの邦画はなかったものの、ヒットの目安となる興行収入10億円以上の邦画は28本にのぼり、前年実績を上回った。かような数的データだけを見れば、日本映画産業がわが世の春を謳歌しているかのように見える。しかし同年の興行収入上位の邦画の顔ぶれを見れば、その歪な姿が浮き彫りになってくる。つまり、その上位のほとんどが、@高視聴率を獲得したテレビ番組を映画化したものや、A高発行部数を達成したマンガを映画化したものによって、占められているのである。

しかし、「如何に低リスクで大きく儲けるか」という企業(特に都心部に位置するメディア系企業を中心とした大企業群)の論理で製作されたこれらの映画の多くは、目くるめく変わりゆく時代の「流行」を部分的に加工して吸収し、メディアを介したイメージ戦略を通して消費者の購買意欲をそそる「商品」としての力はあっても、何度もくり返し鑑賞され将来に渡って無限に意味を問われ続ける「作品」としての力は、ない。そして不幸なことに、これら「商品」を購買する消費者が、ただ「消費する」という快楽にうつつを抜かすことに終始し、ではいったいその「商品」が自分にとって如何ほどの意味を持つものなのかを冷静に考えるための知的基盤を、持ち得ていないことである。

このような日本映画界の憂うるべき状況を打破し、かような知的基盤を供給する力を、大分の湯布院という一地方で催される映画祭が、力強く放ち続けている。まさにこれは、圧倒的なメディア力をもって「フロー型の文化情報」を押し付けてくる東京に面と向かって対峙し、「ストック型の文化情報」をもって戦いを挑もうとする、「地方の反乱」、いや「湯布院の反乱」とも呼ぶべき事態ではなかろうか。



(3)湯布院映画祭を支える人々

実行委員会という組織

なぜ、第1回目の1967年から、30年という長い期間にわたって、湯布院映画祭は開催し続けられたのか。その第一の理由は、いうまでもなく、同映画祭を約30年前に発起し、以来幾多の困難に直面しながらも、高い志のもとに同映画祭の企画・運営を力強く推進してこられた伊藤雄氏(実行委員長)を中心とした初期メンバー(現在ではその多くが60歳前後になられている)の存在があったからである。彼らの多くは大分市在住の市井の方々であるが、その彼らが湯布院映画祭を立ち上げた年の4年前の1972年(昭和47年)は、日本全土に「日本列島改造ブーム」が吹き荒れ、大規模な開発によって産業振興を目指すという潮流が流れており、湯布院でも「サファリパークの建設問題」や「自衛隊の増員移駐問題」が浮上していた時期であった。そんな中、自分たちの「手づくり」で映画祭を起こし、湯布院を「文化の力」で盛り上げようと立ち上がった彼らは、まさに現在でいうところの「社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)」であったといえよう。(もちろん彼らは、今現在においても、「社会起業家」であり続けている。)

そして現在では、彼ら初期メンバーが映画祭の屋台骨を支える「支柱」として存分に機能しつつも、今回の大映京都特集の企画を主導した幸重善爾氏(彼はチェコでアニメーション監督として活躍していた異色の経歴を持っている)や特撮番組の監督として活躍してこられた小原直樹氏のような気鋭の若手映画人(年齢的には40歳代の方々が中心)がその「支柱」を相互補完的に増強し、さらに彼ら中堅メンバーのまわりで、主に20代から30代の若者たちが映画祭の運営実務を精力的にこなしている。

こう言ってしまうと、この映画祭を推進している組織(実行委員会)が、トップダウン型のピラミッド構造をとっているかのように聞こえてしまうかもしれないが、実際は全く違う。上述の初期メンバーや中堅メンバーの方々は、もちろんトークショーなどで司会役をやり(例えば筆者が目にした初期メンバーの横田茂美氏や三宮康裕氏のトークショー司会者としての円熟した手綱さばきは、見事としか言いようのないものであった)、現場でのリーダー的存在として的確な指示を出しつつも、基本的には20代の若手と一緒になって、会場設置やモギリや掃除やゲストの送迎に、汗を流す。そして若者たちも、ひとつの仕事に固着するのではなく、ローテーションで次々といろいろな仕事をリズミカルにこなしていく。このように一人が何役もこなす形で仕事が進められていくので、「如何にすれば『湯布院映画祭というドラマ』を成功させられるのか」という至上命題に対する暗黙知的な了解事項と形式知的なマニュアルが、自然と組織内で共有されていく。つまりは、年代的に離れつつも、湯布院映画祭が放つ「引力」に力強く引き付けらた人々が、「暗黙知」と「形式知」を重層的かつスパイラル的に織り成しながら、非常に柔軟な組織構造のもとに、ひとつの目標に向かっている。この型(=クリエイティブ・ルーティン)が、湯布院映画祭実行委員会の組織としての強さのもととなっているのである。

なお余談であるが、筆者の研究室に所属する学生3名 −大雄博文(修士1年)、木村悠(修士1年)、福原菜美(学部4年)− も、今回の映画祭の開催期間中、運営スタッフとして非常に精力的に働いた。彼らは全くの新参者であるにもかかわらず、運営組織の一員として、湯布院映画祭という「風土」によく溶け込んでいた。この背後にはもちろん、彼ら自身が優秀な働き手であったという事実があるが、と同時に、この映画祭の組織的柔軟性が大きく寄与していたことも指摘されねばなるまい。


「湯布院映画祭ブランド」なるもの

そして驚くべきは、この実行委員会の中心メンバーの面々の日本映画に対する造詣の深さである。彼らの多くは、大分市に在住する市井の方々であるが、彼らがこれまでに自分たちで養ってきた日本映画に対する「目利き力」は、東京や大阪といった都心部在住のプロの映画評論家のそれを凌駕する。彼らは、世間一般に有名な監督の手による映画作品や有名俳優が出演する映画作品を、それが「有名な監督の作品である」「有名な俳優が出演する作品である」ということだけで映画祭で上映することはしない。彼らは、「湯布院映画祭での上映に相応しい映画かどうか」を判断するための一定の基準を暗黙知的に共有しており、その基準に合致した作品のみを選りすぐって、上映している。もちろん、最近の作品だからいいとか、昔の作品だからダメという基準も、一切存在しない。ではその暗黙知的基準とは具体的に何なのか。これを言葉で言い表すのは非常に難しいのであるが(だからこそ「暗黙知」と称されるべきものなのであろうが)、あえて言葉を搾り出して何某かのことを付言するのであれば、この暗黙知的基準の中核には「自分達自身が心ゆくまで堪能できる作品を上映する」という「主客一体型」(=自分という主体と観客という客体が一体化している)のシンプルな考えが鎮座している、ということになるのではなかろうか。そこでは、「観客の嗜好性を論理的に分析してそれに合った作品を上映する」という「主客分離型」(=自分という主体が観客という客体をあくまでも分析対象ととらえている)の考え方は、影を潜めている。そしてこの湯布院独特の「主客一体型」の暗黙知的基準によって作品を選りすぐることが、結果として、「いまの日本の映画界に対して色々な角度から挑戦状をたたきつけるような質の高い良作を上映する」ということにつながってきたのではなかろうか。

そしてかような暗黙知的基準に裏打ちされた湯布院映画祭の「目利き力」の高さこそが、同映画祭を、有名映画評論家などをディレクターに招いて上映映画の選定を実施する他の映画祭(例:経産省が大きく関与する東京国際映画祭や、福岡でいえば福岡市が主催するアジア・フォーカスなど)と明確に「差別化」し、全国から名うての「映画通」を観客として呼び寄せ、かつプロの映画制作者をして「湯布院映画祭に呼ばれることは光栄である」と言わしめる、ひとつの「湯布院映画祭ブランド」なるものを形成してきたのである。(なおこの湯布院の「目利き力」は、実行委員の初期メンバーの方々が30年という長い年月をかけて熟成してきたものであり、他の映画祭が真似できるものではない。今後は、この「目利き力」を如何にして実行委員会の若い世代に浸透させていくのかが、注目されるところである。)

この「湯布院映画祭ブランド」に引き付けられて全国から参加してくる「映画通」の方々の丁々発止のやりとりは、湯布院映画祭のひとつ「名物」となっている。彼らは、特別試写作品の上映の後に必ず催される「シンポジウム」において、たった今鑑賞したばかりの映画の監督や出演俳優に対して、映画作品の内容や出演者の演技の出来について鋭い質問やコメントを投げかける。彼・彼女らは、上映作品の出来が不満足なものであれば、何らの躊躇もなく、「今回観せてもらった作品はこれこれこういう点でまったく面白くなかった」というコメントを次々と浴びせかける。このような厳しいコメントを受けた制作者側も、真剣そのものの表情で、どういう意図でその作品をつくったのかを真摯に答える。

このような作品の「作り手」と「受け手」の間で交わされる濃密なコミュニケーションが、約1時間30分の間、非常に緊迫したムードの中で続けられる。まさに「湯布院映画祭」というひとつの「事件」を「媒介」として、それがなければ決して出会うことがなかったであろう人々が、己が歩んできた人生の「重み」「匂い」「彩り」といったものをしみじみと醸し出しながら、対立を恐れずにぶつかり合うのである。このやりとりが、まさに「人生劇場」の様相を呈しながら、映画作品とは別の「物語」を奏でている。ここに、湯布院映画祭が人々に愛されてやまない魅力のひとつが表出しているといえよう。

それにしても、ここまで人々を熱くさせてしまう映画の魅力とは、何なのだろうか。すでに専門家から一定の評価を受けている音楽作品や絵画作品や彫刻作品について、普通の一般人が「こんな作品のどこがいいのか自分には全く理解できない」と公の場で言うのは、それなりに勇気の要ることであろう。なぜならそこには、「芸術を理解できる人間=教育を受けた教養のある人間」「芸術を理解できない人間=教育を受けていない教養のない人間」という漠然とした「階級意識」が存在するからであろう。一方、映画作品となると、例え権威のある賞を受賞したり映画評論家から高い評価を受けた作品であっても、それを実際に観て自分がつまらないと思えば、「観たけどつまらなかった」「自分ならもっと素晴らしい作品を知っている」と公の場で言えてしまう懐の広さがある。なぜならそこには、「芸術の価値=専門家が断定するもの」という権威主義的な不文律の存在しない、或いは「芸術教育」という固定的な社会システムの介在しない、自由で芳醇な精神的土壌が少なからず育まれてきたからであろう。そしてこのことにこそ、映画祭という文化イベントが、ときに地域社会との高い親和性を発揮し、そこに生きる人々の生活を精神的に豊かにする理由があるのかもしれない。そんなことを漠然と考えさせる場を与えてくれるのも、湯布院映画祭の大きな魅力のひとつではなかろうか。


湯布院という町

そしてこの「湯布院映画祭ブランド」を形成しているもうひとつの大きな要素が、「湯布院という町そのもののブランド力」であることも指摘せねばならない。冒頭で述べたとおり、湯布院は、日本で最も人気のある温泉街のひとつであり、かつ、住民の手による観光地づくりの最も成功したケースとして名声を博しているところでもある。その魅力の源は、日本で第3位の湧出量を誇る温泉の存在以上に、かつて環境経済学者の宮本憲一が提唱した「内発的発展論」を体現するかのようにして住民の手で大切に育まれてきた「あるがままの自然、あるがままの生活環境を基盤とした観光地」が醸し出す「日本の原風景」にあるといえよう。

そして今日まで湯布院がその「原風景」を保持してきたことの背景には、かつて西ドイツ・ハーデンヴィツテンベルグ州の温泉地でまのあたりにした「美しく、豊かな生活空間」への思いを心に抱きつつ、湯布院という町の「湯布院らしさ」をひたすら求め続けてきた中谷健太郎氏や溝口薫平氏をはじめ、彼らとともに幾多の困難を乗り越えて湯布院のまちづくりに携わってきた住民の方々の血のにじむような努力がある。

そして筆者は、この「原風景」に囲まれた湯布院という「ハレ(=非日常)の舞台」において開催される湯布院映画祭自体がさらに別の「ハレ(=非日常)の舞台」を提供しているという、いわば「ハレの二重構造」があるからこそ、「湯布院映画祭ブランド」というものが人々に浸透してきたことを強調したい。つまり、「ハレの舞台」である映画祭会場を出た後も、湯布院というより広々とした「ハレの舞台」に立ち続けているという、ファンタスティックな高揚感を提供できることこそが、湯布院映画祭が他の多くの映画祭と決定的に違う点のひとつであろう。(なおこの「ハレの二重構造」は、カンヌ、ベネチア、ベルリンをはじめ、世界各地で成功している映画祭の多くに共通する要素でもある。)

そしてこの「ハレの二重構造」という仕掛けをつくりあげてきたキーパーソンとして、東京の東宝撮影所での助監督を経て、1962年(昭和37年)に旅館「亀の井別荘」を継いで以来、湯布院のまちづくりをリードしてきた中谷健太郎氏の名を挙げねばならないだろう。中谷氏は、「湯布院ブランド」そのものを体現する「カリスマ」としての役割はもとより、大分市出身の方々が多い同映画祭実行委員会の面々と湯布院在住のサポーターの方々(そのうちの幾人かの方々は由布院観光総合事務所の理事としても活躍されている)とを結びつける橋渡し役として、はたまた、映画祭のゲストとして主に東京からやってくる映画監督、映画俳優、映画評論家といった映画人たちに湯布院の魅力を存分に伝える伝道師役として、同映画祭のこれまでの発展になくてはならない存在であり続けてきた。

かようにして、「映画」と「まち」と「人」がものの見事に融合している、それが、湯布院映画祭の最大の魅力であり、強みであろう。(なお、湯布院が大切に育んできた「原風景」が、昨今の観光開発のあおりを受けて一部崩されつつある問題については、別途指摘されるべきであろう。本稿では、紙面の都合上、詳細には立ち入らないが、この、観光発展に必然的に付随してくる「景観問題」については、今後、湯布院の町づくりに関わる全ての人々が真摯に対峙していかなくてはなるまい。)



(4)昨今の映画祭事情

さてこれまで、湯布院映画祭の魅力について様々な観点より語ってきたが、それでは、他の地域で開催されている映画祭の現況はどうなってるのであろうか。以下、この点について、特に映画祭運営における「自律性」の重要性に留意しながら、簡単に述べてみたい。


中止に追い込まれる映画祭

先ずは、昨今、日本の各地で開催されてきた映画祭が、次々と、中止に追い込まれているという話から。

例えば、2006年7月はじめには、同年10月に開催が予定されていた東京国際ファンタスティック映画祭の休止が発表された。(「中止」ではなく「休止」というのは、あくまで再開を念頭に置いているからだそうだ。)理由は、年間5千万円の同映画祭予算の多くを負担していた冠スポンサーが撤退したことが大きい。同映画祭の特徴は、ビデオの黎明期の80年代の劇場では公開されることのない先鋭的な作品(中には日本でもヒットしたインド映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」も含まれる)を上映することあった。しかし、各国の多種多様な映画のDVDが用意に入手できるようになった現在の観客には、アッピール度が明らかに減退してしまった。

それから、昨年財政破綻した北海道夕張市が、ゆうばりファンタスティック映画祭を中止したことも、こと映画関係者の間では、記憶に新しいところであろう。同映画祭は、炭鉱閉山後の過疎化に悩む夕張市が、観光を主産業として位置づけるための起爆剤として、当時の竹下登内閣の「ふるさと創生資金」の1億円を開催資金の元手として、1990年より開始したものである。以来17年間、同映画祭は、地方自治体が主催する映画祭の草分けとして、娯楽性の高い幅広い映画作品(「ナルニア国物語」や「プロデューサーズ」といったハリウッド作品から自主制作映画まで)を上映してきた。しかし夕張市が2006年6月に国への財政再建団体申請を表明したことにより、同映画の中止が決定され、その歴史に幕を下ろすこととなった。現在、同映画祭の再開を願う夕張市の有志が、NPO法人「ゆうばり映画祭を考える市民の会」を立ち上げて、行政からの補助金に過度に依存していた過去の運営体質を反省し、「自律的」な運営体制の構築を目指して、映画祭再開に奔走している。

この2つの事例が端的に示すことは、単独の主体 (例:東京国際ファンタスティック映画祭における冠スポンサー/ゆうばりファンタスティック映画祭における夕張市) からの「補助金」に過度に依存して運営されている映画祭は、その主体が経営危機に追い込まれれば、一緒に終幕を迎える運命にある、という単純な事実である。つまり、映画祭の「持続性」ということを考えれば、如何にして依存体質から脱却し、「自律的」な運営体制を敷くことができるかという点が非常に重要になってくる。


自律的運営に向けた活動 −山形国際ドキュメンタリー映画祭−

そういった「依存体質からの脱却」「自律的運営体制の構築」に向けて行動を起こし始めたのが、山形国際ドキュメンタリー映画際である。同映画祭は、山形市の市政施行100周年記念事業として1989年より開催されており、東アジアで初めてのドキュメンタリー映画際として、有名である。インターナショナル・コンペティションとアジアプログラムの2つのコンペティション部門と、多彩な特集上映部門より成り立っており、200名を超えるボランティアスタッフが運営を支えている。

家庭用ビデオカメラで簡単にドキュメンタリータッチの映像作品が制作できるようになった状況も追い風となり、同映画祭への応募作品は、2005年度には、初回(1989年)のそれと比して221本の約7倍になった。一方で、同映画祭は、平成17年度の時点で、運営資金の総額約1億3,300万円のうちの1億円を山形市が負担して運営されている状況であり、先の2つの事例からいえば、山形市が財政危機に陥れば、直ちに同映画祭も中止に追い込まれるような状況が続いてきた。山形市は2007年の第10回も1億5千万円の補助金を支給することとなっているが、2009年以降の補助金支給の保証はないという。

そこでこのような「依存体質」から脱却し、「自律的な運営体質」に脱皮するために、同映画祭事務局は、2006年4月にNPO山形市から独立し、NPO法人として活動していくことになった。その一環として、2006年度より全国の同映画祭のファンから寄付を募ることを開始し、さらには、県内の公共施設向けの映像ソフト販売といった収益事業や、東北の他県での上映会の実施などに今後力を入れていく予定である。


自律的な運営であることのメリット

さて、かように「依存体質」から脱却し、「自律的運営」を構築していくことには、「スポンサーがこけたら自分もこける」という財務体質の負の連鎖を断ち切ることが可能となるという「ハードの面」のメリットがあるだけでなく、先に湯布院映画祭について述べた、「自分達自身が心ゆくまで堪能できる作品を上映する」という「主客一体型」の基準によりながら、(他の映画祭とは一線を画した)独自の上映作品を選定できるという「ソフトの面」のメリットもある。これが逆に、単体の企業スポンサーや地方自治体からの補助金に頼っているような運営体制であるならば、当然、上映作品を選定する際にその補助金の「出し手」の意向をいちいち伺わなければならなくなり、湯布院映画祭がつくりあげたような「映画祭ブランド」を築いていくことは困難になってくる。

この点については、例えば、山形ドキュメンタリー映画際事務局の事務局長を勤める宮沢啓氏が、ドキュメンタリーという社会性・政治性の強いジャンルの性格上、「沖縄」や「在日」といったテーマで特集を組もうとした際には映画祭事務局内で議論がおきたという自身の経験をふまえながら、「独立後は自由な企画も可能。他国のドキュメンタリー映画際と連携した活動もできる」と、自律的運営がもたらす「ソフトの面」のメリットを認識した発言をなしている〔日本経済新聞朝刊 2006年9月2日記事〕。 また、京都市の財政難から、2003年度の開催が見送られた京都映画祭の総合プロデューサーの中島貞夫氏は、「映画祭は、ある程度行政から独立した形が望ましい」「京都は日本映画の生産拠点としての歴史があり、それを生かした映画祭の趣旨は間違っていない。しかし、市を主催者にすると、財政問題や、産業部局と文化部局の連絡の悪さなどから、趣旨がだんだん曲がっていってしまう」とのコメントを述べている点も、注目されたい〔朝日新聞・大阪 夕刊2003年9月12日記事〕。

湯布院映画祭の場合、その30数年の歴史を一貫して流れている経営理念は、まさに「自律的運営」にあったといえるのではなかろうか。同映画祭運営費の重要部分は、湯布院の多種多様な地元企業からの協賛金と、チケット収入によって賄われている。そこには、単一の企業スポンサーや地方自治体への「依存体質」は、全く見えない。同映画祭のパンフレットの後ろのほうのページには、由布市湯布院町の地元企業を中心とした約180社が「湯布院映画祭賛助商社」として名を連ねており、かつまた、映画祭期間中には日本全土からやってきた熱烈な映画ファンが映画祭チケットを購入していく。

このように地元のステイクホルダーと全国の映画ファンとの間で築かれた強固な「信頼関係」は、初期メンバーの方々の30年に及ぶ血と汗と涙の結晶であろう。そしてこのような「信頼関係」に裏打ちされた「自律性」が貫かれているからこそ、「湯布院映画祭」は、上述したような、類まれなる「湯布院映画祭ブランド」を築いてこられたといえよう。



(5)最後に

湯布院映画祭は、今年に入り、フィンランドの田舎町で毎年開催されている「ソダンキュラ映画祭」(主催者にはかのアキ・カウリスマキ監督も名を連ねる)より「文化交流」の申し出があり、その第一弾として、湯布院映画祭実行委員長の伊藤雄氏と、前出の中谷健太郎氏(同氏は「ゆふいん文化・記録映画際」の総合プロデューサーでもある)が、6月に開かれた同映画祭に招かれた。(ちなみにこの一環として、今年5月に開催された「ゆふいん文化・記録映画際」には、同映画祭のベッテリ・フォン・バーグ芸術監督が招かれた。) かような「文化交流」の申し出が、フィンランドという遠い国の映画祭からあったのは、約30年の歳月を経て形作られてきた「湯布院映画祭ブランド」が、世界的視野で見ても非常に高い評価を受けうるものであることの雄弁なる証拠である。今後、湯布院映画祭が、フィンランドとの交流を通して、どのように変化していくのか、見ものである。


本稿では、「湯布院映画祭」を「地域社会における自律的な文化情報発信装置」と位置づけながら、それに関連した様々な事柄について、紙面の許す限りに語ってきた。(正直、まだかなり語り足りない部分が残されているのだが。)冒頭で述べたとおり、そこには、「文化の力」で地域活性化を試みる全国の地方都市にとって、数多くの重要な示唆が提示されていると同時に、来る者の心に「映画とは何か」「まちとは何か」「人とは何か」という根源的な問いを投げかけてやまない、不思議な力が渦巻いている。

「映画」と「まち」と「人」の融合、これを約30年という長い年月を経て成し遂げ、そして次の世代へと受け継いでいこうとしている湯布院映画祭。如何なる時代の波の前にも風化させられることのない、「ほんもの」だけが持つ「磁場」が、そこにはある。

まだ湯布院映画祭に行ったことのないあなた、来年の夏、映画祭会場でお会いしましょう。



《参考文献》

1. 2007年度 湯布院映画祭パンフレット

2. 加藤幹朗,2005,「映画の論理 新しい映画史のために」,みすず書房.

3. 野中郁次郎・勝見明,2006,「イノベーションの本質」,日経BP社.

4. 棒富雄,2002,「先進観光地における観光地づくりの要点 −愛知県足助町と大分県湯布院町を事例として−」,『岡山商大社会総合研究所報(第23号)』,岡山商科大学.

5. 朝日新聞・大阪 夕刊2003年9月12日記事.

6. 日本経済新聞朝刊 2006年9月2日記事.

7. 文化庁,2006,「第3回文化庁映画週間 全国映画祭コンベンション “映画祭の現在”」.

posted by CAC at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ソーシャルイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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